・・・ということもあって、観に行くかどうか、迷っていたのですが、シネ・ピピアのタダ券があったので、公開初日に鑑賞です。
Story
美しい自然に囲まれた信州・松本。勤務5年目の青年内科医・栗原一止(櫻井翔)は、医師不足ながらも“24時間365日対応”で大勢の患者を抱える本庄病院に勤めている。救急の当直では専門外の診療をしたり、働き詰めで睡眠が取れなかったりすることも日常茶飯事。それでも一止は、クールな先輩外科医・砂山次郎(要潤)、有能で美人の救急外来看護師長・外村静枝(吉瀬美智子)、同期の冷静沈着な病棟主任看護師・東西直美(池脇千鶴)、新人看護師・水無陽子(朝倉あき)、曲者上司・貫田誠太郎(柄本明)らと共に厳しい地方医療の現実と向き合う。そして、元は旅館のアパート“御嶽荘”で、売れない画家・通称“男爵”(原田泰造)、博学な大学生・通称“学士殿”(岡田義徳)と語らい、最愛の妻で写真家の榛名(宮崎あおい)との心温まるひとときを過ごし、日々の疲れを癒しながら激務を凌いでいた。そんな折、一止は母校の医局を通じて研修に招かれた大学病院で認められ、誘いを受ける。将来より多くの患者を救い、「良い医者」になる為の最先端医療が学べる医局。しかし、一止の目の前には本庄病院にやってくる大勢の患者がいる。悩む一止だったが、ある日、大学病院の外来研修で一度担当した患者・安曇雪乃(加賀まりこ)が、彼の元に現れる。彼女は大学病院で一止の後を引き継いだ医師から「余命半年。あとは好きなことをして過ごして下さい」と見放され、ある理由で一止を頼ってやってきたのだ。そんな彼女と触れ合う中で一止は、命を救うこととは、人を救うこととは何かを問い、医者として、人間としての在り方を見つめ直していく。一に止まると書いて「正しい」と読むその名の通り、一止は惑い苦悩した時こそ、きちんと立ち止まって考える。そして、一止が自らの進む道と臨終を迎える安曇に下した決断とは・・・。
(Movie Walkerより改変)
悲惨な出来を予想していたせいか、思ったよりはずっと良かったです(よくあるパターンですが

一止は、学童期から『草枕』を諳んじるほど繰り返し読み、今もたびたび読み返すほど、夏目漱石を敬愛しているため、現代の青年に似つかわしくない、非常に古風な喋り方をする。その語り口調が会話だけでなく、1人称の地の文にも全面的に取り入れられて、そこはことないユーモアを感じさせるのが、原作の魅力のひとつなんですが、予告編では普通の話し方をするシーンしかない。さすがに、櫻井翔さんにあのセリフ回しはさせないか・・・と思ったら、多少は使われていました。櫻井さんの雰囲気で全面的にやられると違和感があるでしょうし、かといって全くあの口調を使わないと原作の美点を損なうことになりますが、ほどほどにバランス良く、ユーモアとして機能していたと思います。
ところで、砂山次郎を一止と同期ではなく、先輩という設定にしてしまったのは、なぜなんでしょう?原作では同期の2人の丁々発止のやり取りがまた面白いのに。。。
そして、何よりもいちばんいただけなかったのは、“御嶽荘”の住人の描写です。“男爵”はなぜ“男爵”と呼ばれ、“学士殿”はなぜ“学士殿”なのか、あれじゃ原作を読んでいない人にはチンプンカンプン。一止との日々の交流の描き方も不足気味だし、“学士殿”の挫折もしっかりと描かれないので、彼が“御嶽荘”を去る日の一止、榛名、“男爵”による餞(はなむけ)もイマイチ胸に響きません。原作の感動ポイントのひとつなのに!あんなにセリフだけで状況を説明されてもなぁ・・・。それに、この場面で、医師という仕事に対する一止の迷いを、分かりやすいけど安直なセリフで説明したのもダメだと思います。「ここで感動させよう!」という力みが透け見える(気がします)。
ただ、『神様のカルテ』というタイトルを生かすという点では原作よりも、映画のアレンジの方が上手だったと思います。原作を読んだときは、なぜ『神様のカルテ』というタイトルなんだろうか?と思ってしまったので。
あんまり褒めてませんし、わりに地味な作品ですが、まあまあの出来だと思います。
『神様のカルテ』公式サイト
http://www.kamisamanokarute-movie.jp/
まだ入院中のkinkachoです。もう入院生活に飽きてま〜す。
無聊を慰めるのに原作「神様のカルテ」をAmazonするか、電子書籍するか悩んでます。
療養生活のご様子はブログで拝見してます。
早くよくなると良いですね!僕もスマホで電子書籍に挑んでみましたが、やっぱりリアルな本が好きです。
クマネズミのブログにTB&コメントをいただき、誠にありがとうございます。
いただいた貴重なコメントについてのお答は、クマネズミのブログの方に書き記しましたのでご覧になっていただければ幸いです。
この映画についての「ふくちゃん」さんのエントリにおいては、原作と映画との相違点を挙げられ、原作の良さを映画が損なってしまっているようにお書きになっておられる部分(「何よりもいちばんいただけなかったのは、“御嶽荘”の住人の描写」)があります。
ですが、あくまで映画は映画であって、原作とは別物なのではないでしょうか?無論、原作がなければこの映画は制作されなかったでしょうが、それは単なる切っ掛けであって、映画制作者側は、独自の考えがあって映画を制作していると考えるべきなのでは、と思います(原作そのままで良いのであれば、何も映画を作ったり、更にはそれを見る必要などありませんから!)。「“御嶽荘”の住人の描写」が映画のようになっていて、原作と違っているのは、映画制作者側の考えがあってのことではないでしょうか?そうしたところを考えることによって、この映画をどのように見たらいいのか、ということも見えてくるのではないでしょうか?
(何も分からない者が、大層偉そうな口のきき方をして大変申し訳ありませんが、お許し頂ければと思います)
コメントありがとうございます。
クマネズミさんの仰るとおりだと思います。映画は、原作(小説や漫画など)どおりに忠実に作ればよいというものではないと思います。異なる表現媒体ですし、映画には監督や脚本家の想いが込められますから。
しかしながら、それを踏まえても、この映画に関しては、私の感想は特に変わりません(笑)。いずれにせよ、観客が100名いれば、100通りの見方・感じ方があるのが映画だと思います。