2006年08月29日

Recommended Book 『ゲド戦記』(第2回)

 昨日の続きです。

 同じく『 』内が邦題、その後が原題、( )内は(原作刊行年→邦訳刊行年)です。どうしても若干のネタバレを含んでしまいますので、未読の方はご注意下さい(って注意しようがありませんね。実際に読んだときの面白さを損なわないように気をつけているつもりなんですがわーい(嬉しい顔))。

 なお、原作を未読のまま映画を見る方には、映画を理解する手助けになるかも知れません。まだしばらくは上映しているようですね。


ゲド戦記2 『こわれた腕輪』 The Tombs of Atuan(1971年→1976年)

 アーキペラゴの東海域にあるカルガド帝国の人々は、独自の文化・言語の下で生きている。「太古のことば」を完全に捨てた彼らは、魔法を知らず、信じず、使わず、独自の宗教を信仰し、強大な武力でアーキペラゴと敵対していた。

 その昔、アーキペラゴの偉大な魔法使いエレス・アクベはカルカド帝国の大王と和議を結び、その印として平和をもたらす腕環を贈ったのだが、大王の権限を簒奪した神官とその信仰の対象であり、魔法を無力化する「名なき者」との戦いに敗れた。和平の象徴であった腕環は壊れ、半分はアチュアンの墓所の宝庫に、もう半分はエレス・アクベから託されたある人物の手に渡った。

 そして、カルカド帝国の島のひとつアチュアンの墓所の地下迷宮では、永遠に生き続ける大巫女アルハ(実は幼い頃に巫女の生まれ変わりとして選ばれた少女テナー)によって今も「名なき者」たちが祀られている。

 全島を統べる王の存在を長年に渡って失い、島々の間で争いが続く現在のアースシー世界。影との戦いを制して、正式な魔法使いとなった青年ゲドは、平和を回復すべく、かつての戦いの最中に偶然手に入れた「エレス・アクベの腕環」の残り半分を求めて、アチュアンの墓所へ乗り込む。


 では、再読してみて、印象に残った箇所をピックアップ。ゲドによって墓所の巫女という立場から解放されたテナーについて・・・。

 彼女が今知り始めていたのは、自由の重さだった。自由は、それを担おうとする者にとって、実に重い荷物である。勝手のわからない大きな荷物である。それは決して気楽なものではない。自由は与えられるものではなくて、選択すべきものであり、しかもその選択は、必ずしも容易なものではないのだ。坂道をのぼった先に光があることはわかっていても、重い荷を負った旅人は、ついにその坂道をのぼりきれずに終わるかもしれない。


 映画の中の「あの人が連れ出してくれたんだわ。アチュアンのあの暗い墓所から」というテナーのセリフ(不正確ですふらふら)は、この巻の内容を指しているのですが、原作を読んでいないと、「・・・exclamation&question」となってしまいますね。


ゲド戦記3 『さいはての島へ』 The Farthest Shore(1972年→1977年)

 「名なき者」を倒し、テナーをアチュアンの墓所から解放してゴントへ連れ帰り、再びひとつとなった「エレス・アクベの腕環」をアーキペラゴの中心地ハブナーの王宮へと戻したゲド。

 やがて、ロークの大賢人となった壮年期のゲドの元にエンラッドの王子アレンがやってくる。彼の話によるとエンラッドでは魔法の力が弱まり、人々は無気力な状態で、ただ死を待っているという。なぜ「エレス・アクベの腕環」が復活したにも関わらず、アースシー世界の平和は完全に回復しないのか?

 その理由を探るべく、ゲドはアレンと共に探索の旅に出る。そして、クモという魔法使いが、黄泉の国にある生死両界を分かつ扉を開けてしまったことが原因だと突き止めるのだが・・・。


 ご存知の通り、映画のメインストーリーとなったのはこの第3巻ですが、アレンが父親の国王を刺し殺すことも(死んでないかもしれませんが・・・)、自身の影に追われることもありません。しかし、その代わりと言ってはなんですが、ゲドとその魔法の力を疑ってしまうような「負」の感情に囚われる場面があります。テルーは、ここではまだ登場しません。

 もともと『ゲド戦記』は3部作として書かれたもので、その完結にあたる本作には印象深い言葉がたくさん登場します。

「(略)わしらは何をしても、その行為のいずれからも自由にはなりえないし、その行為の結果からも自由にはなりえないものだ。ひとつの行為がつぎの行為を生み、それが、またつぎを生む。(略)」

「自然はいつも自然の法則にのっとってあるものだ。今度のは、だから、どう見ても均衡を正そうというのではなくて、それを狂わそうという動きのように思われる。そんなことができる生物は、この地上には一種類しかない。」

「生きたいと思うって?そう思うことは間違いではありますまいに。」
「うん、そりゃ、間違いではないさ。しかし、ただ生きたいと思うだけではなくて、さらにその上に別の力、たとえば、限りない富とか、絶対の安全とか、不死とか、そういうものを求めるようになったら、その時、人間の願望は欲望に変わるのだ。そして、もしも知識がその欲望と結んだら、その時こそ、邪なるものが立ち上がる。そうなると、この世の均衡はゆるぎ、破滅へと大きく傾いていくのだよ。」

「(略)わしら人間に打ち勝てるものは他にはいないんだ。いや、世界にただひとつ、この邪な心を持つ人間に対抗できるものがいる。それは、別のいまひとりの人間だ。恥を知る者にこそ、栄光はある。悪を為しうるわしらだけが、また、それに打ち勝つこともできるのだよ。」

「いいかね、アレン、何かをするということは、簡単に石ころでも拾って、投げて、あたるかそれるかして、それでおしまい、などと、そんな、若い者が考えるようなわけにはいかないんだ。石が拾い上げられれば、大地はそのぶん軽くなる。石を持った手はそれだけ重くなる。石が投げられれば星の運行はそれに応え、森羅万象、変化が起きる。何をしても、全体の均衡にかかわってくるんだ。一方、風も海も、水や大地や光の力も、それから、けものや緑の草木も、すべてこれらのなすことは首尾よく、正しく行われている。いっさいは均衡を崩さぬ範囲でな。(略)ところが、わしらときたら、今いる世界や人間同士たがいを支配する力を持っており、そうである限りわしらは、木の葉やクジラや風がその本性にのっとって、ごくごく自然にやってることを、その気になって学ばねばならないのだよ。知性があるのなら、あるように行動しなければ。選択が許されているのなら、それなりの責任を持って行動しなければ。(略)」

 
 初めて読んだときは、初期3部作の中では第1巻がいちばん面白く感じたんですが、今回の再読では(全体を通しても)第3巻がマイ・ベスト手(チョキ)でした。

 ところで、『ゲド戦記』では、優れた魔法使いは皆、魔法を使うことに抑制的です。それは、魔法を使うことは、物事の本質に手を加えることであり、そのことが他の何かに影響を与え、「世界の均衡」(世界が自然にあるべき姿)までも左右しうることをわきまえているからです。なので、魔法使いの物語でありながら、派手に魔法を使うシーンはほとんどありません。それがかえってこの物語を厚みのあるものにしていますグッド(上向き矢印)

 続きはまた明日。24時過ぎるかもしれませんが・・・ふらふら

 
 映画『ゲド戦記』に関するレビューはこちらです。

 
タグ:ゲド戦記
posted by ふくちゃん at 23:37| 兵庫 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Recommended Book | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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